誰が悪いとかじゃなくて、やっぱ不自然なこの社会

さくっと聞いちゃえばすごく当たり前のことなんだけど、

わりと忘れちゃうからみんな(もちろん、ぼくを含めて)病んじゃうわけですよね。

臨床してて思うこと(精神科)/うつで自殺した部下

http://blog.m3.com/moromoro/20080429/1


精神科の先生のお話って、わりと和んだりすることが多いです。

一説にはそういった先生方もなんらかの病を抱えているとかなんとか。

自分の病があるからこそ、患者さんの病も理解ができるのかもしれません。


あっ、「精神科といっても先天的な・・・」とかのバイアスは、

とりあえず横に置いといてから書いています。


で、本題。


このブログの執筆者である先生のお父さんの一言から始まりました。


「うつの人間って望みが高すぎるんだな」とかいう。

ブログ主である先生はびっくりします。

なんせそれこそが、自らが10年かかって辿りついた真理だからです。

その真理をお父さんはたった1つのケーススタディで把握します。

ニュースで自殺の問題をやっていて、

親父の昔の部下が、転勤して行った先で自殺したらしい。


お父さんはふつうの公務員。


そして部下はというと、

・コミュケーションがうまく取れなかった

・仕事があまりできるほうではなかった

・愛想は悪くなかったが、気分の浮き沈みが激しかった

・一応、フォローすれば仕事は出来ていた


ここからはつらくて、心がきついです。

まるで自分を鏡で見せられているようです。


・「出来る人材」と見られたがっていた

・最初は愛想がよくて何でもやろうとするけど負担がかかるとすぐ萎える


そして、彼はお父さんの部署から異動することになりました。

異動先の様子が気になり、お父さんは彼の評価を聞きます。

しかし・・・

移動した先での評価は「明るくて、頑張ってやれている」

との評価だったらしく、心配要らないといわれて

親父はほっとしていたらしいけど、

「グダグダと」だったその彼を「やれている」と見る上司って

要はちゃんと面倒見てないってことだから、

その彼はきつかったんだろうな、

アクセルを吹かし続けて、限界を超えちゃったんだなと思った。


・・・

・・・・


ああ、そうか、アクセルを吹かし続けると限界があるのか。

明るくて、頑張ってやれてても、ダメなときはダメなんだ。


そして、お父さんは

「能力以上に評価を求めてしまうことが、彼自身を追い詰めてしまったんだな」


と彼を顧みます。


失敗しない仕事を与えると、もっとできると彼は言う。

そして引き受けても結局潰れてしまう。

彼も落ち込むし、まわりの評価も下がる。

彼は思う「おれはこんなもんじゃない、次は見ていろ」


これってすごくポジティブに見えるけど、

実は自分で自分を追い詰めちゃってるんですね。


明確に今はぼくは、自分で自分を踏み潰している。

よっしゃ、一度、潰れるか。


みなさん、迷惑かけてごめんなさい。

ぼくが原因で、いやな思いをしている人すべてにごめんなさい。

いまの状況はどう考えても、ぼくが原因で引き寄せている困難ばかり。


もう遅かった。

『ハチドリのひとしずく』に関する想い

■「ハチドリ*1ひとしずく」って?

南米・アンデスに伝わる説話です。

世界中のいろんなところで愛され、読まれ、語り継がれている話です。

あるとき、森が燃えていました。

森の動物たちはわれ先にと逃げていきました。

でもクリキンディ*2という名のハチドリだけは行ったり来たり。

口ばしで水のしずくを運んでは、火の上に落としていきます。

動物たちはそれを見て

「そんなことをして何になるんだ」

と笑いました。

クリキンディはこう答えました。

「わたしは わたしに できることをしているだけ」


■(たぶん)一般的な「環境」っていう部分での解釈

で、この話を「環境」っていう部分から切り取るとこうなります。

というか実際に「ハチドリ計画」なんかも含めて、こんな注釈をしてるところが多いはず。

火事になった森=温暖化(高温化)してしまっている地球。

その地球の温暖化をとめるには、小さなことでも「やること」が必要だ。

あなたの小さなアクションこそが温暖化を止める。

ぜひみんな「クリキンディ」の気持ちになって、あなたの「ひとしずく」ををしよう!!

みたいな感じですね。

環境活動とか温暖化を止めるとかって言うとどうしても大げさなことを求められるような気がするので、そうじゃなくてほんの小さなことからでいいんだよ・・・という、子どもには響くものかもしれない。


でもやさぐれちゃって、「中立」ぶった大人たちが言います。(もしくは2ちゃん脳とも言う)

「そんなひとしずくで森の火事が消えたとは思わない。結局、自己満足の領域じゃないか。非効率だ」


言っちゃあ悪いが、浅い・・・浅いですよ。

その浅くて、批判的な思考ルーティンが支持されるんだとしたら、もう世の中は変え甲斐のあるものだと言わざるを得ない。



クリキンディは冷静に、最善の選択をした

実は、クリキンディは非常に効率的なことをしています。

消費者を効率的に消費活動へと向けさせるルーティンとして、「AISAS」*3という言葉があります。


AISASとは、

Attention 注目をすること

Interest 興味を持つこと

Search 調べて、検証すること

Action 行動すること

Share 情報を共有すること

実はクリキンディもこのAISASを知ってか知らずか、踏まえながら行動しているのです。


↓身体を大きく使ったアピールで注目を受ける(A)

↓他の動物と違ったアクションにより興味を持たせる(I)

↓それはどういうこと?と聞かれ、答える(S)

↓〜ここからは創作

↓動物たちの中に動き出すものが出てくる(A)

↓火事が鎮火される状況を情報共有する(S)

↓そして、その情報に気付き注目する動物が出る(最初に戻る)


つまり、ただ単に小さな声をあげたりとか、有力者(象とかライオンとか)に相談して時間をかけたりとかするよりも、まずは派手に動き回って賛同者(に至るまでではなくとも、興味を持つもの)を募るほうが、はるかに最短時間で効率がよかったっていうことです。


しかも、これは誰も傷つけないし、誰も傷つかない。

『ハチドリ』として選択しうる、最善の方法だったんじゃないかと。


で、これは実際に山火事をどう消せばよかったか?という方法論ではなくてですね。

いまある能力や境遇、社会的影響力などは千差万別だ。という中で、現在持ちうるカードをどれだけ有効に活かして、最善の結果を得るか?ということに関する示唆なんです。


「わたしは わたしに できることをしているだけ」

というのは、自分は自分にできることだけやってりゃイインダヨ〜というある意味お気楽主義にのっとったものではなく、自分のおかれた状況を正確に、冷静に判断をした上で「自分が自分にできる(最善の)こと」をしているんだという意思表明なんですね。


■本気で火事を何とかしようとしたクリキンディ

で、なんでそこまでクリキンディが本気だったということを前提にしているのか?という点についてですが、これにはまた物語の世界へ入っていく必要があります。


燃え盛る森林。

その中に単身飛び込むクリキンディ


どう見ても、完全に、いのちをかけてますよね。

燃やされ、死んでしまうかもしれない。


こんなクリキンディが「お気楽主義」とか、読解力というか想像力が欠けているとしか思えません。


でも本気で火事をなんとかしようとしたから、自分の世界を守ろうとしたから、最善の方法を最短で考えて、迷う間もなく行動したわけです。

ぼくはこんなクリキンディに感銘を受けたこともあり、「カトキンディ」と呼ばれることを今もなお続けていますし、今後とも名乗っていこうと思います。


■ハチドリの話には続きがある

このあとどうなったか?


クリキンディの本気の広報戦略は効を奏し、笑って諦めていた動物たちも彼の行動に希望を見出しました。

まず始めに動き出したのは彼に近い、鳥たちでした。


ある鳥はその大きな口ばしでもって、水を多量に運びました。

ある鳥はその美しく通る鳴き声でもって、クリキンディたちの行動を唄にして伝えました。

ある鳥は群れをなし、その編隊でもって、その存在をアピールしました。


すると、他の動物たちもクリキンディたちの行動に共感し始めます。


象たちは大きな鼻でもって、水を火に一斉に浴びせます。

勇猛なライオンたちは、火におびえる動物たちを勇気付け、奮いたたせます。


そのうち、その森に住んでいた動物たちはおろか、他の森に住んでいる動物たちまでもが「火が燃え移ってはいかん」とばかりに火を消しに大挙してやってきました。

中には「楽しそうだったから」というアホな理由で参加した動物もいました。


そして、火事は消えました。

結局、森は半分以上失われてしまいました。

でも、彼らはけして絶望も、諦めることもしませんでした。


なぜなら、森もまた、彼らを守ることを太古の昔に約束していたからです。


かくして、クリキンディという小さなハチドリの行動は、森を救いました。


ご都合主義で創作した内容ではありますが、僕はこれを信じています。


「わたしは わたしに できること」


これは本気のモチベーションに基づいた、とてもとてもアツい言葉なんです。

*1:蜂くらい小さい鳥

*2:『カトキンディ』のオリジンですね

*3:かつては「AIDMA」と呼ばれていたのですが、WEBの普及により新しく提唱されたルーティンです

「中立」はけして「真ん中」ではない


■「中立」は人の2倍モチベーションが必要


先日インターネッツをクローリングしていたところ、こんなような記述を見かけました。

私は中立というのは、二項間で争いが生じている場合に、「どちらの立場でもない別の道」を指し示し、実践することだと思ってます。最悪両方から攻撃される危険があるし、その場合敵対するものを力でねじ伏せる覚悟が必要だと思います。

http://d.hatena.ne.jp/simatomoki/20080413

そしてこんなことも

自分の友達が喧嘩していて、それを止めに入らないのは中立とは呼ばない、ってことです。それこそ「はじめの一歩」の審判のように、体を張って止めに行かなければいけない時だってあると思うんです。


うーん、おおむね同意ダナー。


何か議論を外から見てて「おれは俯瞰的に見てどっちも馬鹿だと思うよ」とかスカしちゃってる人って全く意味ありません。

ましてや「中立」とかそんなもんじゃない、それってただの「無責任」ってやつ。

もっと踏み込んで考えて、知恵をこらして、彼らと同じ温度で「中立」を貫くには、2人分の主張を受け止めることが必要です。


だから、人の2倍の知恵が少なくとも要求されるだろうし、知識も勿論両方の立場にたったものが必要。

そのためには人の2倍モチベーションが必要だし、人の2倍強い想いが必要。

あくまで「中立」をやるんだったらね、必要だらけ。


「放置」はけっして「中立」とは違う、なにも生まない。

まずはそれが言いたかった。この1年「中立」について深く考え、ゆらゆらと揺れているぼくだから。



■攻撃された時点でアウトでしょうね


まあ、前述の引用文の中、「力でねじ伏せる」っていうのは趣味じゃないですけど。

そもそも攻撃されないことが必要ですよね。

あの、理想論とかじゃなくて、実践的にね。


なにごとも想いを実現するためには対立や攻撃なんてないのがベストですよね。

攻撃されるだけのスキを与えるのなら、まだまだその主張を受け止めきれてません。

実際に攻撃されたら、多寡はあれどこちらにも「損失」が生じるわけですから。

リスクマネジメントの観点からしても、あまりにお粗末な方法ですね、攻撃されるなんて。


仲裁するにあたっては攻撃されることなく、双方にとって納得のいく解答を導くこと。

それがベストでしょう、疑う余地もなく。


で、それを逃げ腰じゃなく、本気で行うこと。

リスクマネジメントとは逃げ道を用意しておく以上に、リスクを潰しながら最短の道(クリティカルパス)を踏んでいくことだと思います。

それにはやっぱり綿密なシミュレーションができる思考力とか、そのシミュレーションを行いうるだけの知識量とか、例外にも臨機応変に対応できる状況把握力とか、どんなことがあっても笑顔を崩さないメンタルタフネスとか、状況に応じて表情が使い分けられる演技力とか・・・

色々な能力が総合的に必要になるわけですよね。


「非対立」による「中立」はこんなにも人間の能力を求められるのか。

いばらの道ダナー。



■そもそも公平な情報・データなんて存在しない


そういえばどんなことを話し合ううえでも、高水準の教育を受けている人に限って「ソース(確からしい情報源)は?」と言います。

普段の会話の中でいきなり「ソースは?」なんて言われても、資料持ち歩いているわけでもなければ、全部暗記しているわけじゃない。

そんなぼくは「ソース・・・?ぼくは自宅ではおたふく焼きそばソースを」とか最低のギャグしか言えまへん。


でも情報源にしても、ソースにしても、切り取り方次第によって意味って全然変わってきますよね。

六ヶ所再処理施設にしても、反対派の出すデータはきちんと学者さんの出してるやつだし、日本原燃のデータだって学者さんの出してるやつです。

どっちも「しっかりしたデータ」に違いないわけです。


つまり、

・どのような意図をもって調査するか

・どのような意図をもってデータをまとめるか

・どのような意図をもってデータを分析するか

・どのような意図をもってデータを選択するか

によって、公平でウソを付かないはずのデータだって、イッキに「不公平」で「偏向」したものになる。


「環境問題はなぜウソがまかりとおるのか?」

「環境問題はなぜウソがまかりとおるのか?のウソ」

どっちにしても、正確なデータのもと、理論的にまとめられているんだから、どっちもある意味「ホント」なんです。


脱線しちゃったけど、何が言いたいかっていうと情報やソースには「ウソ」も「ホント」もないし、したがって公平なデータなんてのも存在しないってこと。



■よく食べて、よく噛んで。


食べ物はより手をかけて作られたものを食べると身体にいい。

それを素材のうまみを殺さず調理し、よく噛んで食べる。

そしたら消化不良もおこさず、健康的な便だって出る。


これを変換すると。


情報はより綿密に調べられたものを取り入れるといい。

それを歪めた解釈をせずに受け止め、よく考えながら取り入れる。

そしたら短絡的思考もおこさず、建設的な言論ができる。


そんな感じだと思うんです、よく知るっていうことは。



閑話休題、そろそろ結論をば


「世界平和」なんて絵空事ですか?

ところがどすこい、残念ながらぼくはそうは思ってません。


本気の「中立」な人が増えれば世界平和なんて楽勝だろって思ってます。


戦争は国と国との対立。

でもその国2つ分くらいの中立な人たちが一斉に知恵と知識を総動員すれば、戦争は止まる。

そして、本気で中立な人たちが大多数になったら、戦争自体がなんと非効率で不経済な手段なのかと気付くわけです。

すると、戦争自体起こらない。


ぼくは本気の「中立」を目指して、自分に立ち向かっていきます。

そして、その「中立」な人を増やすことをやめません。


結論:無責任な「中立」なんてやめて、本気の「中立」をしようぜ!

シュガー社員が会社を溶かすならビター社員はどうなんだ?


ちょっと前に話題になった「シュガー社員」という言葉があります。

シュガー社員が会社を溶かす」の著者、田北百樹子氏(札幌の社労士)によるネーミングです。


シュガー社員とは砂糖のように甘い、甘やかされてきた人材のことを指していいまして、いわゆる「ゆとり」とかと同じような呼称だと考えていただいて結構です。


シュガー社員」には主に5つのタイプがありまして、どれか1つということではなく、複合して発現している場合もあるようです。


【タイプ1】ヘリ親依存型シュガー社員
ヘリコプターのように常に親が監視しており、何かあればすぐ会社へ介入してくる。
例)「うちの子を残業させるなんて!この子は昔っから体が弱くて(以下略」


【タイプ2】俺リスペクト型シュガー社員
異常に自己評価が高く、上司に叱られても自分のせいではない。
例)「俺が怒られたのって、先輩がちゃんと教えてくれなかったからじゃねーの?まあ人間だから間違えることもあるかもしんねーけど、今度はしっかりして下さいよ(笑)」


【タイプ3】プリズンブレイクシュガー社員
壁に当たると乗り越えられず、楽な方楽な方へと逃げる。
例)「僕にはこんな大変な仕事できません。これ以上仕事を振らないでください!」/叱られた次の日に無断欠勤する。


【タイプ4】ワンルームキャパシティ型シュガー社員
とにかくキャパシティが狭い。応用力がなく、言われたことしかできない。
例)マニュアルにない質問をされ、電話口なのに無言で凍りつく/A=Bは理解して、A=Cも理解できるが、それによるB=Cは自分で思いつかない


【タイプ5】私生活延長型シュガー社員
勤め人意識が低く、私生活の感情を持ち込む。ルーズ。
「今日デートなんで定時で帰っていいっすか(笑)?」/飲み会の次の日に遅刻して「あんなに先輩達が飲ますからっすよ(笑)」



ということで。


書いていてもなんだかゲンナリしてくる人々ですが、実際にこのようなシュガー社員がロスジェネ以降の年代から企業社会を溶かそうとしているんだから、世もまつです。


でもこれは一つの要素(イデア)の側面を、極めて悪意的に切り取って羅列したに過ぎない、ということも押さえておく必要があるでしょう。


たとえば、「風邪をひく」とは極めて私的な事象ですが、それが原因で会社を休む場合に【タイプ5】に対応するでしょうか?上司によっては「熱が出た時も俺は這って会社へ来た」と言う人もいるでしょうが、社会通念上体調不良で休むのは悪いことではありません。


逆に、上記5タイプを逆にすれば、理想の社員=ビター社員になるのでしょうか?


【タイプ1】身内絶縁型
何があっても親・兄弟誰も関与しない

【タイプ2】俺ディスリスペクト型
全て自分のせいだと考える

【タイプ3】プリズンイン型
過酷な方、過酷な方へと行きたがる

【タイプ4】豪邸30LDK型
キャパシティが広く、なんでも自分でこなしてしまう

【タイプ5】モーレツ社員型
プロ意識が異常に高く、私生活を全く感じさせない


思いの他悪くないですね。

最初は「これはこれでダメっぽいでしょ?だからバランスなんです、全部」とか言って落とそうと思ってたのに、意外といい感じの人材です。

まーでも、いわゆるこんな「マッチョ」な人材はそうそう求人市場へはでてきません。

僕もマッチョにはなれませんね、というかおもっくそシュガー社員【タイプ3】です。めんどくさい仕事は後回しにして、楽しい仕事から手を付けるし。



ということで、以下にシュガー社員テストを貼り付けておきました。
http://www.bookman.co.jp/enquete/esp.cgi?_page=sugar


加藤さんの結果


シュガー社員度 20%


 社会人になって3年目以内であれば許されることがたくさんありますが、そうでない場合は「え?この人、この年でこんだけ〜?」と周りから思われているかもしれません。

 自分にやる気がいっぱいあっても、周りが腐っているとどう頑張っても一緒だと、やや腐りかけるところがほんのり甘シュガー社員です。

 周りに左右されやすく、頑張る上司や自分に目をかけてくれる人がいれば一緒に成長できますが、サボリ癖のある同僚がいれば一緒になってサボりだします。

 新しい環境には比較的早く馴染むのですが、新しいことに夢中になると過去の落とし物を忘れがちになります。前の職場での恋人、引っ越し前の電気代、前職場の制服など清算しなければならないことを後回しにしてしばしばトラブルになったりしていませんか?

 ドタキャンが多く、埋め合わせしますと言いながら放っておいたりしていませんか?
「あの人はきちんとしている」という評価をもらえるためにどう行動したらいいのかを今一度考えてみましょう


***

∠( ゚д゚)/
どっかでぼくのこと見てましたか?wwww


完全に耳の痛い話です。


自己分析どおりの【タイプ3】ですね^^^


やんだもう。

ニコニコ動画を貼り付けられるようになった


おめでとう

ニコニコどうがは(RC2)から(SP1)にしんかした


ということで、いろいろとトップのデザインが変わったのに加え、外部サービスにおいてもニコニコ動画の閲覧ができるプレーヤーの配布も始めたようです。

これを用いると、ニコニコ動画のアカウントを持っていない人でも動画を楽しむことができますね!


ただ、貼り付けることができるのは勿論、ニコニコ動画のアカウントを持っていなければなりません。


それに、YOUTUBEみたいに自由に検索することもできませんので、結局みんなニコ動に登録をしたがるようになると思うんです。


でも、まだまだアカウント待ちの人もいるだろうから、500円くらいなら・・・ということで、プレミアム会員が増加!

ニコニコ運営うめえwwwwという構図でしょうか。


「会員以外に動画を見せるメリットあんの?」という風に思わせつつ、この「サービスの小出し」によってニコニコは収益を大きく伸ばすことになるでしょう。


くやしいっ!こんな現状のWEB市場においてあまりにも的確なサービスの提供ができるなんて・・・ビクンビクン!


ということで、記念はりつけ。

加藤くんの大好きなイチロー、レーザービームです。


D
ニコニコ動画イチローのレーザービームで人類滅亡

この世に産まれ堕ちた排出権という免罪符


■贖宥状(≒免罪符)の誕生と終焉


かつて、キリスト教が世界を席捲していた頃。
人々は罪の赦しを得るために「痛悔」=犯した罪を猛省し、次に「告白」=罪を司祭に告白して、「償い」=犯した罪に見合った償いをするという三段階を踏んでいました。


その「償い」は非常に重いものでしたが、ある時助長した教会が「我が権威の下、償いを軽減しよう」と言い出しました。これが「贖宥」(免罪)と呼ばれる考え方です。


最初に贖宥の原型ができたのが十字軍遠征後。従軍した者に対し「贖宥」を行い、従軍できなかったものは金品の寄進を行うことによってそれに代えたのです。


次に「ローマへ巡礼すれば贖宥される」と説かれ始めた時、ローマへ巡礼できない者に対し「贖宥状」(≒免罪符)の販売が始まりました。これは当初、フランス等の妨害により巡礼者が難儀することへの救済措置として行われたのですが、その後も、各地で贖宥状は販売されることとなりました。


そしてドイツでとある司教の野望に基づき、大々的に贖宥状の販売が行われ始めました。


とある司教――アルブレヒトは司教のポストを複数獲得するために多額の献金ローマ教皇庁へする必要があり、そのために贖宥状で稼げるだけ稼ごうとしたのです。アルブレヒトは贖宥状販売に際しマニュアルを作成し、テッツェルを始めとした贖宥状促進役(贖宥状の販売代理店)を任命し、自らの販売権を独占しながらどんどん収益を得ました。


一方、後に宗教改革の旗手となったルターは、当初贖宥状自体への反感は持っておらず、むしろ教義に合っていると思っていました。


しかしルターの元へ告白にやってくる信徒たちが、誇らしげに贖宥状を持って「自分はもう償いは必要ないですけどね^^」と言い切るのを見て、疑問を持ち始めたのです。


やがて、ルターは前述の贖宥状販売マニュアルに対して「贖宥の濫用が見られる」として書簡を送り、同時に大学の掲示板へもその文書を張り出しました。


後にこのことが発端となり、さらに幾つかの政治的意図が組み合わさったことで宗教革命が起こることとなりました。そして贖宥状の売買は禁止されるようになったのです。


■CO2排出権という贖宥状


ついにモンスター総合商社(エネルギー事業、輸出入等)の丸紅までもが、CO2排出権に手を出すことになりました。
ロシアの会社と今年にも契約を締結し、京都議定書に基づいて排出権を買い取るそうです。


昨今、その排出権がひとつの免罪符になってきているような気がしています。
現金さえ積めば、罪悪感はなくなる。
Duty free(免税)ならぬ、Guilty Free(免罪)・・・。


環境保護という反論できない圧倒的なキーワードを振りかざし、CO2排出は罪!罪!罪ィッ!!というイメージばかりに注目を誘い、そこに救世主の如くあらわれた「排出権」という免罪符はしたたかに売り抜けられ、購入者は「ああ、オフセットしたから世界は救われる」とありもしない幻想を夢見る・・・そして胴元は高笑いをする。そんな結末が僕にははっきりと見え、とても危機感を感じずにはいられないという心情です。


かつての先人は免罪符の売買が主となるあまり、そこに至る罪への意識や償いなどの気持ちを忘れてしまいました。そして結局「免罪符」が元でルターは宗教革命を起こし、その後免罪符の売買は禁止されることとなりました。


まさにその時の状況と類似しているとぼくは思っています。


「金持ちが贅を尽くして浪費し、同時に甚大な額の金をこの排出権へと投下すればそれで持続可能な社会は実現できるのか?」


誰もがそんなのおかしいとわかるはずなのに、そこの疑問さえも剥ぎ取ってしまうような情報の潮流。経済にとって都合よく作られたストーリーにのせられるだけの日本人。


ぼくはこのシステム自体が悪だとはいいません。切り詰めて、切り詰めて、それでも生活の中でどうしても余分に出てしまったCO2をどうにかしたいが、環境活動しようにも植林しようにも、なにぶん時間もなければ体力もない。身を切られるような想いだが、せめてお金だけでも、環境に役立つように幾らか出したい・・・そんな人がいて然りだとは思います。


その人はその参加の仕方でいいと思います。


でも、その途中がすっとばされて、しかもそれに誰もが気にならなくなるのが危険だと思うのです。


「環境破壊って罪ですよね?絶対に罪ですよね?ハイ、そこで今回ご紹介するのがこちら『CO2排出権』!!これを買えば、あら不思議!あなたの生活におけるCO2排出を一気に帳消しします!!」
と深夜の通販番組のように煽動しているようなイメージなのです。



時代は繰り返すのか、それとも終焉を告げるのか。


現代のアルブレヒトとテッツェル、そしてルターは誰なのか。


ぼくたちはいま一度、昇る階段の先を見極めなければなりません。たとえ高すぎるところまで来てしまい、降りることが難儀だったり恐ろしかったりしても、その先が破滅では悲しすぎますよね。



※今回の記事の参考元
Wikipedia|95ヶ条の論題

Wikipedia|贖宥状

日経プレスリリース|丸紅、ロシアのガスプロム・グループと排出権先渡し購入契約を締結

例のチェーンメールに思うこと

昨日は毎週楽しみにしている4・4実行委員会・・・でしたが、仕事がなかなかお片づけできずに、18:00〜21:00のMTGなのに結局到着は20:00。


(ノ∀`)アチャー


でも先日のエントリーに書き連ねたような会議進行のお話を踏まえたうえで、ホワイトボードを用いてMTGの内容をファシリテートしてきました。(自分の中では「つもり」)


意識しだしたばかりのファシリテーション・・・うまくできるようになって、素敵なモチベーションを持った人たちのために役立ちたいです。


で、その後に残ったメンバーで「ウメ子の家」っつーDining Barに行ったんです。まあDining Barと気取ってみても、要は居酒屋なんですけど。でも、すごいオシャレでキレイなお店でした。


ここなら女子を連れてきても全然問題ないね。


それはともかく、そこで和気藹々と3・9講演会(別エントリー)のお話し合いをしてて、終わってやれやれっつースーパー和みタイムのときに3名ほどの携帯にメール着信が。


送信者は違えど、同じ内容のメール。


何やらこの人の先輩の友達の子どもが白血病で、RHマイナスB型の輸血が必要だと。その子は東京にいるんだけれども、とにかくRHマイナスB型の人は輸血センターに行ってくれろと。


最後に、連絡先として携帯電話の番号が記載されていました。


ほほう、どういうことだろう?なんていう名前なんだろう?どうすれば届けられるんだろう?そもそもの輸血センターにおいて、名指し
で誰かに輸血するなんてできるんだろうか?


そんなことをやいのやいのと話し合っていたところ、すぐさま1人の携帯にお詫びのメールが。


さっきのはチェーンメールでした。ごめんなさい。


ΩΩΩ<な・・・なんだってー!!


というわけで、この内容に関しては虚偽の内容だったようです。
善意のつもりで行ったことが、完全に「チェーンメール」といわれる忌むべき行為だと断罪されたときの虚無感。きっとチェーンメールを送ってしまった人は、今頃やりばのない気持ちを抱えていることでしょう。


でも、よくある話なんです。「善意」が迷走するなんていうことは。


そして、そっからひょんな話になりました。「自分のこどもが実際にRHマイナスB型で白血病患者だったらどうだろうか?」という話です。


おそらく親は冷静さを失うかもしれない、チェーンメールでも何でもいい、頼りたい・・・と思うかもしれません。事実、このチェーンメールを見たときに「あっ、うちのこどもも白血病なんだ・・・っ!こういう風によびかけたらいいんだ!」と思ってしまった人もいるかもしれないのです。


そして、それがエスカレートすると、いわゆる「2歳の子が心臓移植をするためにアメリカへ渡らなければなりません。そのためには○億円ものお金が必要です。ぜひ善意のみなさん、寄付をお願いします!!」という話になってくるんじゃないかと。


でも、果たして人の心臓をいただき、体中がチューブでいっぱいになり、とってもつらい思いをかけて、そしてギャンブルのような確立の心臓移植に成功したとしても何年も生きられるかわからない、そんな手術・そんな「善意」にどんな意味があるだろう?


そんな話になったのです。


親は絶対に「奇跡」を信じたい。死んでしまったら起こりようのない「奇跡」も、生きている限りは起こりうるから。


とはいえ、それは子どもが望んでいることなのか?


そこで僕は、冷酷だといわれるのを承知で、あえて言いたい。


莫大な費用・甚大な精神的負担をかけてまで、延命治療をすることは不自然ではないだろうか?その子は短い生を選んで生まれてきたんだから、その「意味」を愛情を持ってしっかりと受け止めてあげるのが親の役割なんじゃないか。そして、その子がくれたいのちのバトンをたくすために、新たないのちを2人で紡いでいくべきなんじゃないか、と。


その子のいのちを受け止めずに、生や死を冒涜するかのように生きながらえさせる・・・ただただ、子どもの死が受け止められないという動機だけで生きながらえさせるのは、僕は善いことだとは思えません。




あなたを大人になるまで育てられなくて、とても残念。


でも、あなたのことは心から愛してる。


生まれてきてくれて、本当にありがとう。




人の生涯は流れ星のように一瞬で、そこに「長い」「短い」というひとはいません。でも、その一瞬の流れ星に人々は祈りを、願いをささげます。あるいは、自分たちのいのちの儚さと流れ星を同一視しているのかもしれません。


そして、今一度自分に問うてみた。

「お前の子どもが短い命だと知ったなら、どうする?」


チェーンメールで昭和大に電話殺到「3歳の子ども助けて」

 病気の子どもに輸血が必要だという作り話の「チェーンメール」が21日から携帯電話などで流され、入院先と名指しされた昭和大学病院(東京都品川区)に100件以上の問い合わせが相次いでいる。

 メールは「知人の3歳の子が白血病で、昭和大に入院している。手術が受けられない状態で、誰かRHマイナスB型の方いませんか」という内容。連絡先の携帯番号まで記され、知人に回すように呼びかけている。ただ、携帯番号は現在、使われていない。

 同院の担当者によると「病院に行けば血液を提供できるのか」「本当に入院しているのか」などの問い合わせが21日から相次いでいる。多い時で1時間に10件以上の電話が鳴り、業務に支障がでているという。同院はホームページで、メールの内容を否定し、「当院と一切関係がございません」と説明している。